日本遺産 中世に出逢えるまち 河内長野① 文化財はこれだ!!【河内長野 こんなオモロイとこ】

 平成27年(2015)、文化庁は、地域の歴史的魅力や特徴を通じて日本の文化、伝統を語るストーリーを日本遺産(Japan Heritage)として認定した。
 これは、地域に根ざし世代を超えて受け継がれてきた有形・無形の文化財を域外に発信することによって地域を活性化させることを目的としたものである  

 ちなみに 世界遺産は、「遺産を保護」することを目的としたUNESCOの活動であるが、日本遺産は「遺産を活用」することにより地域の魅力を知ってもらうことを目的とした文化庁の活動である。 
 日本遺産には、単一の市町村でストーリーが完結する「地域型」と、複数の市町村に跨る「シリアル型(複数自治体横断型)」があるが、令和元年(‘19)5月、河内長野の「中世に出逢えるまち ~千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫~ 」が「地域型」の日本遺産として認定された。

《 日本の中世 》
 日本の中世は、平氏政権の成立(1167年代)頃から、安土・桃山時代(戦国末期)までを言うが(諸説あり)、河内長野では、阿(あ)観(かん)による金剛寺中興から豊臣秀吉による烏帽子形城の廃城までと考えられている。
 日本の中世は、朝廷による一元的統治が崩壊し、守護などの武家勢力や寺院などの宗教勢力による全国規模の分断統治・分権統治が行われた時代である。
 公家や武家、寺社が、それぞれ力を持ち、相互に補完しながら成立した時代であったが、特に在地の寺院が地域で大きな役割を果たし、寺辺地域に対する支配権が外部権力から承認、保障された時代でもあった。このように中世は寺院が国家権力を構成した時代でもあるが、それが“中世一山寺院”の観心寺や金剛寺などである。

しかしその後、織田信長や豊臣秀吉による武家勢力によって、一向宗徒の征討や比叡山の焼き討ち、さらに烏帽子形城の改修による高野山への対峙などにより宗教勢力は武装解除され、その権力は壊滅した。宗教者が武力を持つ時代=中世は、終焉したのである。そして武家による一元的統治=江戸幕府による近世が始まった。烏帽子形城の構築は、日本の中世を終わらせ近世の扉を開く基になったのである。

《 中世のイメージ 》 
 我々がイメージする中世は、源義経や弁慶、那須与一、あるいは楠木正成や足利尊氏、そして戦国期を代表する上杉謙信や武田信玄、さらに斎藤道三等など武将や英雄・豪傑が活躍する時代でもある。

《 中世の文化財 》
 中世の文化財は、全国的に少ないが、河内長野市では観心寺や金剛寺に代表されるように寺院に関連するものが数多く残こされている。そしてそれらの文化財は、それぞれの地域で幾世代にも渡って守られてきたことから市内全体を“ぐるっとまちじゅう博物館”と称している。
 “中世に出逢えるまち 河内長野”で日本遺産を体感することは、これらの文化財を巡る散策でもある。
 そして南海電鉄・高野線沿いには、“百舌鳥古墳群”や“高野山”という二つの世界遺産があるが、その中間に位置しているのが、河内長野の“日本遺産 中世に出逢えるまち”なのである。

《 日本遺産の構成文化財 》
寺院:   天野山金剛寺(楼門、食堂、多宝塔、金堂、 薬師堂、御影堂、
      観月亭などの建造物群、摩尼院(南朝行在所)・旧観蔵院(北朝行在 所・奥殿)
      などの子院群、彫刻群)、金剛寺鎮守、下里観音堂、
      観心寺(金堂、建掛塔、訶梨帝母天堂、本願堂、中院、槙本院、
      行者堂、恩賜講堂などの建造物群、星塚、後村上天皇陵、
      大楠公首塚、彫刻群)、鳩原弥勒堂、鳩原大日寺、
      小深天狗堂、増福寺、月輪寺、岩瀬薬師寺、 (※) 延命寺
神社:   川上神社、太井八幡神社跡、青賀原神社、長野神社、
      烏帽子形八幡神社、 (※)(流谷)八幡神社
城郭:   烏帽子形城跡(主郭、腰曲輪、土塁、横堀、切岸、堀切)
民家:   山本家住宅               
街道:   高野街道、天野街道・巡礼街道、大沢街道
祭礼:    正御影供
棚田の景観:川上地区等の民家と棚田の景観、天野谷の棚田の景観

(筆者注)
(上)金剛寺『河内名所図会』
(中)烏帽子形八幡神社『河内名所図会』
(下)長野神社 松明立て
(※)令和2年6月19日 追加認定済


                       R2・3・3 横山 豊

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