河内長野のクロスワード 『街道・解説編』

 河内長野は、山青く、水清らかな地である。
この地では、古来より幾多の歴史が刻まれ、多くの文化遺産や史跡が残された。そしてそれらに
ゆかりの人たちが、その名を当地に留めている。
当地を散策すると、これら多くの史跡や文化財が、我々を待っているし、これらに関わった人々との出会いもある。クロスワードを解いて知的な世界に遊べましたか。史跡や文化財にあふれた河内
長野を探訪したいと思われましたか。

R4(‘22)・1・22  横山 豊   

【タテのカギ】
1:千早口駅周辺の地名は、“岩瀬”であるが、当地では千早から索道で送られてきた高野豆腐を出荷をしていたので“千早への入り口”の意で千早口(チハヤグチ)と呼ばれている。
3:高野山への参詣道・高野(コウヤ)街道は、4本の街道がそれぞれ合流しながら河内長野駅前で一本となり、高野山の女人堂まで続いている。
5:河内長野駅そばの諸越橋から石川の東岸を北に進み、腰神神社を経て瀧谷不動明王寺に至る道は、瀧谷(タキダニ)道と呼ばれている。
6:南海高野線の廃線道は、切り花や咳止めの原料となる南天が多く見られることから“ナンテンのみち”と呼ばれ「大阪の道99選」に選ばれている。しかしツツジや紫陽花、八重桜も多く、この道は、“花樹の道”と言える。
7:美加の台付近から天見の蟹井神社に至る南海の廃線道は、アニメ“となりのトトロ”に登場する景色に似ていることから、サイクリストたちは、ここを“トトロ街道”と呼んでいるようである。
8:東(ヒガシ)高野街道は、高野街道の一つで京都の石清水八幡宮から洞ヶ峠、生駒山の西麓を走り、富田林の寺内町を抜けて河内長野の駅前に通じている。
9:天見(アマミ)は、餘部(あまるべ)が転訛したもので、中世には甲斐庄と呼ばれていた。
12:三日市(ミッカイチ)宿は、大坂へ8里、堺へ6里、紀見峠へ3里、高野山女人堂へ8里の
交通の要衝に立地している。当宿の南には石見川、西と北を天見川が、そして東には石見川
から分岐した導水路が流れ、三日市宿は川に囲まれた環濠集落と言える。
13:西(ニシ)高野街道は、堺・大小路から狭山・岩室、茱萸木を経て河内長野市に入り、與津で中高野街道、長野駅前で東高野街道と合流する。その後は西高野街道とも、高野街道とも称される一本の道となって高野山に続いている。
14:空海が祈祷を行った所から樟が生えてきて大きく育ち、4本の枝に分かれたので、これが與津(ヨツ)という地名になったと伝わる。中高野街道は当地で西高野街道と合流し、その後は
西高野街道として河内長野駅前まで続いている。
15:日本(二ホン)遺産は、地域の歴史的魅力や特徴を通じて日本文化、伝統を語り地域を活性化させることを目的としてたもので、河内長野では、三つ認定されている。
19:長野(ナガノ)神社は、江戸時代まで木宿堂宮とか、牛頭天王宮とか呼ばれ、東西の高野街道はこの神社の北で合流していた。
21:里程(リテイ)石とは、里表示の距離を刻んだ標識で高野山女人堂への道しるべ。西高野街道では、堺から高野山女人堂に近づく毎に里程石に刻まれる表示里数は小さくなっていく。

【ヨコのカギ】
1:日本の中世は、平氏政権の成立(1167年)頃から安土桃山時代(戦国末期)まで(諸説あり)を言うが、河内長野の中世(チュウセイ)は、阿観による金剛寺の再興から烏帽子形城の廃城までと考えられている。
2:紀見峠を越えた高野街道は、橋本市の東家で伊勢(イセ)道(大和街道)と合流する。この伊勢道は和歌山城下京橋から紀の川沿いを東に進み伊勢につながる道である。
3:河内長野駅周辺は、木材の集荷場であったことからお宮は、木屋堂(コヤド)の宮とか牛頭天王宮とか呼ばれていたが、明治元年、長野神社に改称された。
4:河内長野から河合寺、観心寺、川上神社を経由、大沢峠を越え奈良の五條に至る道は、大沢
 (オオサワ)街道と呼ばれ、日本遺産“中世に出逢えるまち”に認定されている。
9:三日市宿の旅籠・油屋(アブラヤ)は、幕末には天誅組が休憩したり、戦後には柳原白蓮が
ここで詠会を催した宿であるが、残念なことに建屋は解体されてしまった。
10:昭和15年、開校予定の大阪陸軍幼年学校のために当地に電車を停めることになった。その
ために昭和13年2月11日、開業されたのが千代田(チヨダ)駅である。なお跡地には、
現在大阪南医療センターなどが建つ。
11:清水(シミズ)は、老婆が弘法大師に水を差し上げたことに由来する地名で、一般的には
“弘法清水”と呼ばれる説話の一つ。当地では“二つ井戸”と呼ばれる井戸が二つあり、今も
名水が湧いている。
13:高野街道の終点は、高野山金剛峯寺女人(ニョニン)堂であるが、ここから奥には江戸時代まで女性は参詣できなかった。しかし女人結界石の手前に女人堂が設けられ、女性もここから
本尊を遥拝できるようにしていた。これが女人堂である。
16:一里(イチリ)塚は、江戸時代、旅人の便を計るために1里ごとに築かれた目印で、東高野
街道の錦織には、大阪府下で唯一の一里塚が残されている。
17:観心寺の金堂を取り巻く七つの星(ホシ)塚は、我が国唯一のもので、梵字が刻まれた石が
配されている。
18:江戸時代の旅館には、食事付きの旅籠(平(ヒラ)旅籠と飯盛旅籠)と旅人が自炊する木賃宿があった。
19:中(ナカ)高野街道は、大坂・平野の大念仏寺付近から松原を経て狭山藩陣屋そばを通り河内長野の與津で西高野街道に合流していた。
20:葛城(カツラギ)修験は、日本遺産の一つで、河内長野では滝畑の光瀧寺や岩湧寺、そして経塚(第16番~18番)などがその構成文化財として令和2年(2020)に認定された。
22:寺ヶ池は、河内長野最大のため池。池とその水路は、令和3(‘21)年11月、“世界(カンガイ)施設遺産”として認定された。
23:河内長野には、日本遺産(イサン)が三つと世界遺産が一つある。
24:お参りする聖地が1ヶ所で、そこが遠い場合は“参詣(サンケイ)”、近ければ“参拝”と言う。
25:天野(アマノ)街道とは、大阪狭山市の今熊から陶器山、穴地蔵、青賀原神社を経て、天野山金剛寺に至る参詣道で丘陵の上の散策路は緑のトンネル。日本遺産“中世に出逢えるまち”の構成文化財の一つ。
26:数か所の聖地を“礼”をもって“巡”って行くことが目的で、そこが遠ければ“巡礼”、近ければ“巡拝”と言い、遠方の西国三十三所の観音を巡っていく道は、巡礼(ジュンレイ)道と呼ばれ、この道も日本遺産“中世に出逢えるまち”に認定されている。河内長野では、4番の
槙尾山施福寺から5番の葛井寺へ続く巡礼道が市内を走っている。

河内長野のクロスワード 街道編 解説

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